出石焼 虹洋陶苑


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ある日の出石


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出石焼の栞

 
 

「出石」は昔、伊豆志・伊都志・五師とも書き歌枕名寄せには出嶋とも記されていたが、和銅六年「諸国郡衙の名に好名を用うべき勅あり」今の「出石」と改字した。
 
この出石は国名を但馬の国と謂い兵庫県の北部城崎温泉より約二十数キロ南に位し、雄畧天皇十七(473)年春三月詔あり近江の国鏡の谷の陶人が当地に来り清器を作ると日本書紀に記載する。出石の伝統産業として出石焼はその発生の歴史に於いて卓絶した古い伝統を有し、その名声は出石の象徴として人々にもてはやされ、明和元年泉屋治郎兵衛(姓長谷)と伊豆屋弥左衛門相謀りて出石町細見字桜尾の地に於いて土焼窯を築き出石焼の草分けとなし、寛政二年二八屋珍左衛門は石焼即ち磁器の生産をなすに始る。珍左衛門は当時の藩主仙石越前守久道公の命を受け肥前の国に赴き業を修し帰藩後寛政十二年には藩有となって仙石家の御庭焼となるも、此の間、因幡屋勘五郎、鹿児島屋粛平、伊佐屋忠治、七味屋平八等と名工続出して作品は愛陶家絶賛の的となり、明治初年廃藩の節、士族授産の目的を以って佐賀の陶工柴田善平を招き能登の国より友田安清を招聘して白磁彫刻等技法を習し、石英粗面岩の分解物を原料とした純白な磁器に当窯は長年の手法を活して優美な白磁に染付、彫刻、色釉の色彩を加え精巧な装飾品を作りつつその技術を向上し、郷土陶芸の伸展に邁進しつつあります。何卒御批判と御支援の程希う。